「怒らないとわからない」と彼女は言った

昨日のエントリについて、ブクマでwackunnpapaさんより過分なお言葉をいただいた。

何だか,読んでホッとさせられた.すぐれた論考だと思う.現場で咄嗟にここまで考えられるかと問われると,自信は無いけど・・・・・・.

要領を得ない長文に、そのように言っていただけると…。ただ、私も、もしそこに居合わせたら、自信はないです。まして、私が喧嘩の当事者であれば、かな〜り、怪しいです。どちらかというと、現場を離れたところの、現在のウェブ内で交わされている意見に、私の主眼はあります。かえるさんの当該エントリのブクマコメ欄、udyさんの

そんなすれ違いの積み重ねから醸成される空気

…というひとことにインスパイアされたと言いますか。そこで、もう少し続けます。


私も、まず謝るべきだと思う。 - ねこの日々 - ブログ版
 私もそう思う。もし先方のお母さんがいち早くかえるさんの娘さんに駆け寄って、「大丈夫?ごめんね!怖かったね…ごめんね…」と言っておれば、ずいぶんと違ったろう。初動が遅れて、相手の親が先に自分の娘に叱責を始めたところに割って入ったのでも、まず娘に代わってお詫びするのが筋だったろう。


http://www.mypress.jp/v2_writers/reiko_kato/story/?story_id=1573520

これは障害者差別うんぬんの話ではなく、娘を虐められてカーッとなった母親と、子供を差別されたとやはりカーッとなった母親との口喧嘩を描いた話で、喧嘩の勝敗は威勢のいい啖呵をきったかえるさんの勝ち、というだけだ。そのかえるさんも、あとで言い過ぎたと大いに反省するのだから、それ以上突っ込むところはないように思うが、「障害」とか「障害者」とかに文章の中でうかつに触れてしまうと、何を言われても仕方がないのだろうか。


 これは違うだろう。これが障碍うんぬんの話ではなくて何だろうか。障碍のことが関係ない話だったら…という想定ができないのだが。無理やり想定してみたのだが、健常者の娘(10才)がよその娘さん(3才)を蹴飛ばしてしまって、相手のお母さんがすごい剣幕で駆け寄って叱責を始めたとする。すると…
「○○なんです。わからないんです。怒らないでください」
うーん、どうも想像つかない。このひとことでかえるさんはカッとなったのだから、これ相当の言葉が出なくてはいけないのだが、障碍以外に、ありえる台詞だろうか…


 というか、確かにこれは喧嘩の話なのだけど、ただ単に喧嘩の勝ち負けの話にしてしまうのは問題の無化だと思う。私も先方のお母さんは口下手だという印象を強く持った。だからなおさら、弁の立つ相手に言い返され聞く耳持たずで責められて「差別差別」と繰り返すほかなくなったという面がある。私なら…まず謝るだろうとは思うけど、やりそこなって詫びそびれて先に怒声を止めようとしてしまったとする。先に事情説明など始めて相手の激憤を買ってしまったとする。もちろんその非は自分にある。だけど、その先にあの罵声を浴びたなら、私は売られた喧嘩を買うだろうか。こっちを想像してみた。


 口論になったなら、私はかえるさんを圧倒するだろう。「ほ〜ぅ、あんたそこまで言うかね。ガキの喧嘩じゃないか、ちょっと蹴られて泣かされたくらいでそこまで言うか?」…に始まって、機関銃のように辛辣な言葉を浴びせるだろう。喧嘩の勝ち負けに過ぎないんだという話で良いのであれば、もし、多くの人が「それでいいんじゃないの?」と思ってくれるのならば、私は躊躇無くそうするだろう。でも、きっと、そうではない。今の「はてな」内の空気を見ても、決してそんなことはない。「障碍者だからと言って、何をしても許されるのか!」…そうだ、そのとおりだ。だからおそらく、こういう喧嘩はしないだろうと思う。


 なぜなら、この種の喧嘩は、障碍児の親としては買うべきではないと思うからである。そして、勝ってはいけない…と踏みとどまろうとすると思うからである。もしそこで私が相手の親御さんに勝ってしまえば、相手の親御さんに「障碍者と、その親」のぬぐいがたい嫌悪感を与えてしまう。なるほど勝った私は少しは気が晴れるかもしれないが、それがどれだけ他の同じ立場の親御さんの迷惑になるか。だから、つまり、喧嘩の勝ち負けの話ではないのである。喧嘩の勝ち負けで言うなら、はじめから負けるべき喧嘩なのだ。先方のお母さんのいう「差別差別…」というのは、このことを言いたかったのだろうか…違うかもしれないが。まずごめんなさいって、それからだよ - S嬢 はてなは、以上のことを踏まえて書かれた、あえて強い苦言なのであろうと私は思った。同じsatomiesさんの次のエントリも、その線上にこそ出てくるのであろうと思う。


 さてそこで、「わからないということが、わからない」について考えたい。先方のお母さんは「障害者なんだから、わからないのが当然でしょ」とは言ってないようなのだが、そう言ってるかのように思わせてしまったらしい。ただし、ほんとにそう思ってる人なのか、気が動転したのか、そこがわからない。不幸なことだと思う。「なぜそんなに頑なな態度なのだろう」というキーワードから、昨夜は先方のお母さんの頑なさについていろいろ可能性を推論した。今夜は、かえるさんのほうの頑なさについて、考えたい。

だが、「障害者なんだから、わからないのが当然でしょ」って言葉と態度に、カーッと来たことは反省しないな。
(…)
「普通の子と違うんですから」と反論されたら、ああ、そうですかしか言えない。「自分の子なのに、『わからない』って決め付けるなよ」って気持ちもあったな。ただ、どういう障害なのかはわからないが、「この子は、わからないし、できない」って、そんなんでいいのかよと。それを言いたかったが、言葉になりませんでした。
(…)
お姉ちゃんのお母さんは『わからないから、怒らないで』って言ったんだ。でも、お母さんは『それはおかしいよ。わからないかもしれないけど、怒らないと、いつまでたってもわからないよ』と思って、それ、おかしいよって言ったんで、ケンカになっちゃったんだよ。


 私には、かえるさんもまた、なぜそこまで頑ななのだろうか、というふうにも考える。が、これはわりとわかりやすいようにも思う。子供の躾に関して、最近、もうほんとになってない親がしばしばいるわけだ。しかも、叱りつけたり怒り上げたりすることが何か悪いことかのような妙な意見もチラホラ。自分の子を他人が叱ると、すぐにもう権利だ差別だというのも。かえるさんの学級崩壊の記事など読むと、ご自分の信念や、現状への問題意識というものを私は推測する。


 障碍があるからと言って問題行動をそのままにしていいのか。そういう話題が先日から「はてな」内で盛んになっているので、そこに合わせた話題提供…ということでもあろう。そこで思い出したのが、この件である、と。そこで、障碍を理由に問題行動を放置する親として、それはおかしいと言ったら「差別だ!」とわめきだした事例として、今件は挙げられている。


 まさにそういう馬鹿親であるのかもしれない。しかし、そうではないかもしれないということが、実はかえるさんの記事から察することができたので、私はそれも指摘したかった。この先ずっとわからないままなのか、それでいいのかと言えば、そうではない(わからせる方法もあるし、わかる日が来ないとは決め付けられない)ということは、昨日のエントリに書いたので繰り返さない。先方の母親が言う障碍とは、おそらくは自閉症周辺であろうこと、そうであれば、怒声では躾けられないこと(ことに見知らぬ人からのそれはパニックになりかねない)にも言及した。


 「怒らないとわからないではないか」という信念は間違っていないが、そこに固着した結果、想定し得る多くの選択肢が見えなくなっていると思う。その固着なのである、その、選択肢の想定の狭隘化なのである、自閉症の最大の特徴は。


 「わからないかもしれないけど、怒らないと、いつまでたってもわからない」…かえるさんの信念は、私も共感できる。そのとおりだろう、多くの場合は。しかし、障碍の種類によっては、それが通じないこともある。しかしそれは、わからせること、わからなくても身に付けさせることを放棄することではない。「どういう障害なのかはわからないが」とかえるさんは一言のもとに斬り捨てるが、あれから何年もたっているわけだけど、一度でも、「どういう障害なのか」とお考えになったことがあるのだろうか。


 かえるさんは、わかろうとしただろうか。というか、わかるのだろうか。誰かから無理解を怒られたら、わかることができるのだろうか。逆だろう、そこで怒られたら、理解しようという気は失せるのではないだろうか。健常者の大人だって、実は、怒られたらわかるとは限らないのである。障碍者の子供であればなおさら、そういう面があるというだけの話なのだ。


 私は、かえるさんが自閉症について「わからなくてはいけない」とも思わないし、「わからせよう」とも思わない。だからこのエントリも、わかる人はわかるけどわからぬ人はわかるまい、わからなくてもいいですよという気持ちで書いている。ただし、これだけはわかってほしいと思うことがある。健常者ですら「わかりません。わからなくっちゃいけないんですか?」と言っていいのに、ましていわんや障碍者をや。それだけ、他者を理解するということには難しい面があって、自閉症にはそれがより難しいという、実は程度問題でしかない…と言えば言い過ぎか。


 「自分の子なのに、『わからない』って決め付けるなよ」…そうだろうか。自分の子ならば、わからせることができるというのは、親の思い込みにすぎぬ場合も、あるだろう。他人を理解できなかったり、他人に理解してもらえなかったり、それを我々は日々感得して生きているはずなのであって、我が子は、もっとも身近な他人であるにすぎない。そのことは、健常者も障碍者も、変わるところは無いだろう。


■追記■
http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20070225/p1
↑この多動児の親は、典型的な馬鹿親。ここは公園じゃなくて図書館。静謐が求められるところ。TPOぐらい考えろ、と。ADHDは知的障碍はないんだし、言って聞かせることも叱って制御することもできる。どうにかしようがある。もし、制御不能に多動が出ているんなら、少しおとなしくなるまで館外に出るべきだな、他人から注意される前に。つうか、雑誌コーナーて…。他人に迷惑かけてまでふんぞり返って読まなきゃいけないようなもんじゃないだろ、買って読めや、と。「出て行けというんなら出て行きますけど?」というのは、脅しですね。「はい、出て行ってください」なんて、図書館の姉ちゃんは言えんだろうな、市役所に「出て行ってくれと言われました」とかねじ込みそうだし。なので「出て行けなんて言いませんが、静かにさせてください」の一点張りでいいんじゃないかと思われる。