上野千鶴子の「空白の石版」

最近発売になったに『バックラッシュ!』という本に上野千鶴子のインタビューが載ってて、その内容に非常に問題があるとmacskaさんが批判していますmacska dot org » 上野千鶴子氏『バックラッシュ!』掲載インタビューのバックラッシュ性。そこで、そのブログの中から引用しつつ、私も考えてみました。確かに、macskaさんたちの言うように、ゲイへの偏見がひどい。でもその偏見の指摘の仕方などについて、macskaさんたちの批判は党派的に過ぎないか、とも思ったのです。問題はそれより大きな背景があると考えますので、それを書きます。*興味のある方はスティーブン・ピンカー『人間の本性を考える 〜心は「空白の石版」か』もお勧めです。


まず、引用による上野の言葉から。

性別二元制の核にあるのは、男が女と差異化することで、みずからを性的主体として主体化するというアイデンティティの形成です。ゲイやトランスジェンダーの人たちのなかにも、性的主体化をめぐるミソジニーがあるかどうか、をわたしは疑っています。よって、ゲイとフェミニズムが共闘できるかと問われれば、ミソジナスでないゲイとなら、と私は答えます。こういう発言をすると、ゲイの活動家から強烈なバッシングを受けることになるでしょうが、ミソジナスでないゲイという存在を、私は想像することができません。ミソジナスでないゲイとは、男性性を美化しないゲイということになりますが、お目にかかりたいものですね。


上野は「ゲイとフェミニズムが共闘できるかと問われれば」と言っています。フェミニズムにもいろいろあるでしょう、政治運動ではないものもあるでしょうけど、上野にとって、そしておそらく多くのフェミニストにとって、フェミニズムは(言論活動を含む)政治運動でしょう。その政治運動として「共闘」できる相手と見ているかどうかを、上野は語っているのです。ところがこの箇所について、macskaさんは別の人のブログちょっと違和感 - 美徳の不幸 part 2で、このように説きます。

「話を聞く価値のあるゲイ」と「そうでないゲイ」があると言うならそれでいいんですよ。ゲイにとっても、「話を聞く価値のあるフェミ」と「そうでないフェミ」があるでしょうし(現時点では、上野さんは限りなく後者に近いのではないかと)。でも上野さんはその条件として「ミソジナスでないゲイ」なら良い、と言っていて、さらに「ミソジナスでないゲイ」など現実には存在しないだろう、と言っているわけです。それは、「話を聞く価値のあるゲイ」というのは現実的には一切存在しない、すなわちゲイの話は一切聞く気がない、と言っていることになりませんか? ゲイという集団をそこまで一括して非難し排除するというのは、どう考えてもホモフォビアそのものです。


末尾の一行については後で述べます。上野は政治運動として「共闘できるかどうか」を語ったのですが、macskaさんはこれを「話を聞く価値があるかないか」に変換してしまっています。しかし、たとえば政治運動としての政敵や政治思想上の論敵として、「共闘」などは望むべくもない「敵方」であっても、「敵中にその人あり」という人物を見出せることがあると思います。あるいはその時々の政治課題・論題において、論を戦わせても「話す価値がある」ことは、けっして少ないことでもないでしょう。ですから「共闘はできない」と「話す価値がない」とは、イコールではありません。macskaさんにとっては、「共闘できるかどうか」が「話す価値があるかどうか」とイコールなのでしょうか。またmacskaさんは続けて、

これは例えば、「仕事ができる女性なら雇うが、仕事ができない女性まで雇う気はない」という一見まっとうな意見(仕事ができないのであれば性別に関わらず雇いたくないのは当たり前だから)の持ち主が、続けて「現実には仕事ができる女性なんていないけどな」と言ったら、それは明らかに女性差別でしょ? それを差別でないと必死になって擁護することに、何の意味がありますか。


これは例が不適切だと思う。上記は明らかに差別です。文中の「性別」を「先祖の身分」に置き換えて見れば、それは一目瞭然でしょう。

これは例えば、「仕事ができる被差別部落出身者なら雇うが、仕事ができない被差別部落出身者まで雇う気はない」という一見まっとうな意見(仕事ができないのであれば先祖の身分に関わらず雇いたくないのは当たり前だから)の持ち主が、続けて「現実には仕事ができる被差別部落出身者なんていないけどな」と言ったら、それは明らかに先祖の身分による差別でしょ? それを差別でないと必死になって擁護することに、何の意味がありますか。


しかし、これらの文を(上野の文脈ではなく)macskaさん自身の文脈で言葉を置き換えるてみると、どうでしょうか。

これは例えば、「議論ができる右派が相手なら話すが、議論にならない右派と話す気はない」という一見まっとうな意見(議論ができないのであれば左右に関わらず話したくないのは当たり前だから)の持ち主が、続けて「現実には議論ができる右派なんていないけどな」と言ったら、それは明らかに右派差別でしょ? それを差別でないと必死になって擁護することに、何の意味がありますか。


これは、成り立ちませんよね。この場合は党派的偏見の持ち主だとはわかるけれど、それが差別でないことも明らかでしょう。上野に戻すと、「共闘できない」という意見です。その理由の中には偏見があるし、差別性もある。しかしmacskaさんの指摘するような論理で差別だとはできないはずです。その対象を自分の政治運動として共闘にふさわしくない相手だとするときの偏見と、就業差別の正当化に見る「能力」への蔑視と、それを同次元で語るのはおかしい。ならばmacskaさんは「つくる会」支持者と共闘できるか?一方的な偏見はないか?だとしたらmacskaさんは彼らを差別していることになるのか?こうした、政治的共闘を拒むことが差別であるとするような論理展開は、非常におかしいでしょう。上野のホモフォビア、と決め付けるのもいかがなものか。「差別だ!」「これこそバックラッシュだ!」とするのは感情論ではないでしょうか。


なお、私がここで疑問に思うのは、なるほど「フェミニズム」は政治運動でしょうけど「ゲイ」そのものは政治運動ではないでしょう。これはたとえば「つくる会の運動は在日コリアンと共闘できるか」という問いの立て方、および自問自答で「反日でない在日なら、と答えます。しかし、反日ではない在日という存在を、私は想像できない」という人がいたら、それと同じ性質のものでしょう。これらは固有の政治運動の側からなされた一方的な偏見、そして「囲い込み」ではないかと思うのです。こうした点について、macskaさんは自分のブログで別の見方から指摘します。

それ以前に「ゲイとフェミニズムの共闘はできるか」という質問設定自体が間違っている。なぜならそういう問いは、レズビアンやその他のクィア女性の存在を抹消することになるからだ。レズビアンに対して「同性愛の問題はゲイ男性と、性差別の問題はヘテロ女性と」共闘すべきだと指し示すのは、結局「女性運動は全員ヘテロ、同性愛者運動は全員男性」のフリをしろということにほかならない。本来ならば「同性愛の問題にはヘテロ女性が支援者として協力し、性差別の問題にはゲイ男性が支援者として協力する」でなければならない。


これにも、上野への疑問と同じ感想を抱きます。「運動の単位」と「性志向の単位」とを結びつけていることには変わらない。また、上野がゲイに言うのは「あんたらどうせまるっきり男やねんから、うちらの目指しとるんと違うねん。だいたいあんたら女嫌いで男色なんのとちゃうのん?一緒にはやってけへんで?」です。で、なぜこれがレズビアンに「あんたらの悩みもあの人たちと同じやねんから男と同じでえぇやん、あっち行っといてや。うちらノンケの女だけが相手や」と指し示していることになるのかも、まったくわかりません。


さて、私がこれまで話したゲイ・オカマの人たちの中には、強烈にミソジナスな人もいたし、まったくそうでない人もいました。これは当たり前のことであって、ゲイとは「色恋として選ぶ相手が自分と同じ男である人」というだけのことでしょう。女を嫌うかどうかが先にあってゲイになってるんでしょうか?よく知らないのですが、そんな話をゲイ・オカマの人から聞いたことはありません。そういう人もいるかもしれないし、いないかもしれないし、わからないでしょうに。物心ついた頃からの人もいれば、いろいろとあっての人もありでしょう。では、こうした上野のゲイへの偏見はどこから来たのか。

ヘテロセクシズムも、ホモセクシュアリティも、トランスジェンダーも、性別二元制のさまざまな効果にすぎません。ジェンダー秩序がなければ、同性愛も存在しないし、トランスセクシュアルも存在しない。だからこそ、ジェンダー秩序の解体が、共通の目標になりえます。(中略)性別二元制の核にあるのは、男が女と差異化することで、みずからを性的主体として主体化するというアイデンティティの形成です。


上野は、性自認や性志向も全て生後の学習であるとの信念を変えていないように思います。すべては文化社会的な「ジェンダー秩序」によって自己の外部から学習し内面化されたもの。しかし現状それは厳然としてあるから、「男と女」という認識も強固なので責めても仕方ない。じゃぁまずやるべきは性犯罪の被害者にも加害者にもならないような教育こそやるべきで云々・・・となるのでしょう。そんな上野にとってゲイは、「みづからの男性性を性的主体として美化することによりアイデンティティを形成した男」なのであって、ノンケの男以上にミソジニーを「疑われる」のです。そうでないのなら何でゲイになるのか理由がつかない、と思い込んでいるのではないか。


こうした誤認や偏見は他にもあります。TS臨床例を「ジェンダーがセックスと独立していることがわかった」とする医科学的傍証と主張した件、自閉性症候群を「母子密着によるもの」との偏見で解説した件上野千鶴子の「『マザコン少年の末路』の末路」の末路。後者については上野なりに反省はしているようですけど「配慮が足らなかった」というものでしかなく、いづれにしても自説の根本的な訂正はありません。上野はなお強固に、「空白の石板(タブラ・ラサorブランク・スレート)」説にもとづく「ジェンダー秩序の内面化による男女の意識形成」だけを信じているように思えます。上野は絶対に、器質性など生来のものもあることを認めはしないのです。このことが指摘されないで、上野の個人的な資質の問題に矮小化したり、「差別だ!」と糾弾したりするのは、方向性が違うのではないかと思いました。